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仙台工場長インタビュー

被災した工場だからこそできる支援 (1/3)

巨大地震と津波に襲われながらも、地域の避難場所として機能したキリンビール株式会社仙台工場(以下、仙台工場)。現在は完全復旧を果たし、震災前同様、東北6県と新潟県にビール製品を出荷している。震災後、従業員たちはどのような思いで復旧までの道を歩んで来たのか。仙台工場長の横田乃里也に、震災直後から完全復旧までの道のりを聞いた。

想定外だった津波による工場の浸水

Q 震災当日の仙台工場の動きを教えてください。
A もともと仙台工場では、地震に対する防災計画を立てていました。具体的には、地震が来たらまず体を安全な所に隠し、その後、決められた集合場所に集まって点呼を行うというものです。防災訓練を通じて何度もトレーニングをしていましたらから、地震による混乱はありませんでした。

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震災当日の状況について語る横田工場長

でも津波は想定外でした。工場は仙台港の奥に位置しており、海抜も5メートルあります。正直、津波で工場が浸水するとは思っていませんでした。そんな状況でしたらから、津波に対する防災計画は、地震に対するものに比べ簡易でした。

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写真中央の緑に囲まれている敷地が仙台工場。左奥には仙台港が見える(写真提供/キリンビール仙台工場)

Q 津波にはどのように対応されたのですか。
A 地震の防災計画では、各職場の集合場所で点呼を取った後、敷地内にあるグラウンドンに集まることにしていました。従業員や工場関係者、工場見学やレストランに来ていたお客様の一部は、一度はグラウンドに集まりました。しかし、大津波警報が発令されたことを受けて、避難場所を事務所ビルの屋上に変更したのです。

Q 工場内の津波の高さはどのくらいでしたか。
A 最大で2.5メートルあり、体が飲み込まれてしまう高さでした。津波が来た時には全員が屋上に避難していたため、人的被害はありませんでした。でも工場を襲う津波に対し、何もできないのは辛かった。従業員たちも、自分たちが愛情込めて作った製品や通勤に使っている愛車が次々と流されていくのを、ぼう然と見るほかありませんでした。

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津波によって工場内のあらゆるものが流出した(写真提供/キリンビール仙台工場)

Q その後はどうされたのですか。
A 外は雪が降っていて、厳しい寒さでした。津波による浸水は建物1階までということが確認できましたので、屋上に避難していた全員を2階に移動させました。
移動後は、食糧や飲料、また布団や毛布などを配布しました。高齢者や子どもたちには、応接室などソファのある部屋で寝てもらい、従業員は床で寝ながら、一夜を明かします。
問題は食料の備蓄が限られていることでした。避難した481名を賄えるのは、3月11日の1回分しかありませんでした。そこで翌朝、仙台市へ支援を要請し、自衛隊に迎えに来てもらい、各自が仙台市内の避難所へと向かったのです。
地震と津波の被害こそあったものの、私たちはまだ恵まれていたほうかもしれません。近隣の工場では、流された従業員の方もいらっしゃいましたし、自衛隊の迎えが間に合わず、避難所まで濡れながら歩いて向かった人もいたと聞きました。
一方、仙台工場の従業員の中にも、家族を失ったり、自宅が全半壊した者もいました。震災後、すぐに全従業員を集めて、復旧に向けた対策を講じたかったのですが、こうした事情から全員を集めるのは無理でした。

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